『……あなた…誰…?』
目覚めて最初に彼女が口にしたのは、その一言だった。
僕はこうなる事を願い、覚悟もしていた。
そう…総ては計画通り。
「……僕は紫義。
倶東国の傭兵です。
昨夜道で倒れている貴女を見つけ、この宿営地までお連れしました。」
『昨夜…?
私…匠と一緒にこの世界に来て…多喜子ちゃん達に助けてもらって………
その後──……?』
彼女はなんとか思い出そうと努力してみるが、やはりそれ以上は思い出せないようだった。
『…だめだぁ…思い出せないや…
あ、それより助けてくれてどうもありがとう!』
記憶の糸を手繰る事を一度断念すると、彼女は無邪気な笑顔を僕へと向ける。
その屈託の無い笑顔に思わず緩みそうになる表情を押さえながら、僕は彼女にゆっくりと言葉を返した。
「いえ…僕は大した事はしていません。
それより、貴女の名前は……?」
『えっと…麻理子…』
───えぇ、知っています…
「ご自分の名前は覚えていたようですね。
恐らく何らかの衝撃で一時的に記憶が欠落してしまったのでしょう。
…まぁ貴女の様子では失くした記憶は僅かなようですし…それ程問題はなさそうですね。」
出来るだけ抑揚は付けず、淡々とした言葉を麻理子に投げ掛ける。
『え…!?問題大ありだよ!
此処が何処かも解んないし…多喜子ちゃん達が今何処にいるのか…どうしてはぐれたのかも解んないし…!!』
「…つまり、その連れの方々の居場所が解れば良いのでしょう?」
『え…?
あぁ…うん、それさえ解ればどうにかして合流も出来ると思うけど…』
「それならばその方々の行方は僕が調べます。
麻理子、名前や特徴等を教えて頂けますか?」
そこまで話してふと麻理子の顔を見ると、麻理子は不思議そうにじっと僕の顔を見つめていた。
『…なんでそんなに親切にしてくれるの?
会ったばかりの私なんかのために…』
そう言いながら真っ直ぐに見つめられ、一瞬言葉に詰まってしまった。
しかし、次々に浮かぶ言葉の波からなんとか適当な言葉を拾い上げ、繋ぎ合わせるように話す。
「…会ったばかり、だからです。
見ず知らずの人間をいつまでも此処に置いておく訳にはいきませんから…」
『…そっか、確かにそうだね』
僕の言葉に納得したのか、麻理子は小さく頷くと、玄武の巫女達の事を話し始めた。
──えぇ…全部知っていますよ…
貴女の事も、巫女達の事も、そして──貴女が失くしてしまったこの数日間の思い出も……総て…
けれどそれは、貴女には不要なものです…麻理子…
この宿営地での記憶…
その足枷さえ無ければ、何も迷う事無く貴女自身が生きるべき世界へと戻る事が出来るのだから…
──時々、麻理子が目を腫らしている朝があった。
恐らくは一晩中独りで悩み、苦しんで泣いていたのだろう…
それに気付いていながら、何も出来ない自分がもどかしく、悔しかった。
そして何よりも、麻理子を苦しめているものが自分自身に他ならない事が、一番辛かった…
麻理子の苦しみを消し去る事が出来るなら───…
そうして僕は、決意した。
『──これ、なぁに?』
目の前に差し出された見慣れない液体を見ながら、麻理子は不思議そうに僕に問い掛けた。
「それは安眠効果のある薬湯です。
貴女が最近あまり寝ていないように見えたので…僕が用意しました」
『紫義が…?
………そっか…心配、してくれてたんだね…
…ありがとう……』
一瞬驚いて見せたが、すぐに満面の笑みを浮かべて麻理子は僕に顔を向けた。
…きっとこれが、彼女が僕に向ける最後の笑顔になるのだろう。
「さぁ、今夜は薬湯を飲んでゆっくり休んで下さい。
これまでに相当疲れも溜まっているでしょうから…」
『うん、ありがとう…紫義』
そう言って麻理子は薬湯が入った器に口をつけた。
中身は薬湯などでは無かった。
本当は僕が調合した“忘却草”……
「……おやすみなさい、麻理子…
良い夢を──…」
眠りについた麻理子の頬を指先でそっと撫でながら、僕はそれだけを呟いてその場を後にした。
──これで良かったのだ
調合は完璧だった。
次に目醒めた時、貴女から僕と過ごしたこの数日の記憶だけが消えているだろう…
これで、麻理子をやっと救う事が出来る……
「───……」
痛みなら、慣れている。
傷を背負うのは自分独りで良い。
彼女はこれから先、幸福にならなければいけないのだから───
「貴女の連れの方々の居場所が解りました。」
麻理子が記憶を失くしたその日の夕刻。
僕は巫女達の情報を伝える為に麻理子の天幕を訪ねていた。
『え?もう多喜子ちゃん達の居場所が解ったの!?』
「えぇ、今日はもう遅いので明日僕が彼等の所まで麻理子を送り届けます。」
『良かったぁ…!
本当に色々してくれてどうもありがとう!紫義!』
何も知らない彼女が見せたのは、以前と全く変わらぬ笑顔だった。
「…いえ…礼を言われる程の事ではありません…
それでは、明朝再び迎えに来ます。」
それだけを伝え終えると、僕は素早く麻理子の天幕を後にした。
──朝が来れば、それで麻理子との繋がりは総て消える。
ふいに、先程の麻理子の笑顔が脳裏に浮かんだ。
彼女はこれから先、あの笑顔を絶やす事無く歩いてゆけるだろうか……
「───…これぐらいの事で感傷に浸るなど…僕らしくありませんね…」
受け取る相手も無いまま、自嘲じみた乾いた笑いだけが零れ落ちた。
「──麻理子、用意は出来ましたか?」
夜が明け、東の空が朝焼けに染まり始めた頃。
僕は麻理子の天幕の前に立っていた。
『あ…ちょっと待って!今終わるからまだ入らないでっ!!』
天幕の中からは、麻理子の声と共に、バタバタと天幕内を駆ける慌ただしい音が聞こえて来る。
「麻理子…僕はちゃんとここで待っていますから、そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
思わずクスリと笑いながら言葉を返し、ふと空を見上げてみた。
こんな風にのんびり空を見るなど、一体何年振りだろうか。
「──良い天気ですね……」
貴女を送り出すには、とても良い日です───
『待たせちゃって本当にごめんねっ!紫義!!』
ぼんやりと空を眺めていると、突然天幕から麻理子が飛び出して来た。
余程急いで身仕度を整えたのか、肩を上下させながらぜいぜいと息を切らせている。
「…だから急がなくて良いと言ったでしょう…
今からそんなに疲れていては巫女達の元に辿り着く前に倒れてしまいますよ?」
ため息と共に自分の表情が緩んでゆくのを感じると、それを隠す為だったのか…
それとも他意があったのかも解らぬまま、僕は両手を膝に乗せて屈み込んだままの麻理子の頭をくしゃっと撫でていた。
『…もし倒れたら…まだ少しは側に居られるかな…』
「え……?」
『…なんてね…。
冗談だよ!さ、多喜子ちゃん達の所に行かなきゃね!』
そう言うと麻理子は、僕に笑顔を向け、途中擦れ違う兵達と短く言葉を交わしながら宿営地の外へと足速に駆けて行った。
──気のせいだろうか…麻理子の目が少し赤かったような気がする。
「…そんなはずはありませんね…」
そう。
彼女にはもはや夜中泣き通す理由など何一つありはしないのだから…。
「──大丈夫ですか、麻理子?」
険しい山道を歩きながら、少し遅れて後を付いて来る麻理子を振り返りつつ声をかける。
こういった道を歩き慣れていない為か、麻理子はここまでに何度も岩の間に足を取られて転びかけていた。
『う…うん…なんとか…』
そう言葉を返してはくれるものの、やはり危うさに変わりは無かった。
「……麻理子」
『え……』
とうとう見ていられなくなった僕は、彼女の手を取って歩く事にした。
『し…紫義?』
「こうしていれば少しは歩きやすいでしょう。」
『…でも…転んで紫義に迷惑かけちゃうかもしれないし……』
「構いません。
これは僕が勝手にしている事ですから」
『──…ありがと……』
今にも消え入りそうなか細い声でそう言うと、麻理子は少しだけ強く僕の手を握りしめた。
『ねぇ紫義。
私以外にも、紫義達の宿営地に一般人が居た事ってあるの?』
「いいえ。
本来部外者を招き入れる場所ではありませんからね」
『そっかぁ…じゃあ私、特別待遇だ!』
「えぇ、そうですね。」
冗談混じりに笑いかける彼女に、僕も少しだけ笑いながら言葉を返す。
何も無いけれど、穏やかな時間がそこには在った。
もしも僕が傭兵で無かったら…
もしも麻理子が異世界の者で無かったら…
そうしたらこんな風に何気ない事で笑い合いながら、共に歩いて行く事が出来たのだろうか──…
それからしばらく歩き、森を抜けると唐突に視界が開かれ、眼下に小さな村を見下ろせる丘の上へと辿り着いた。
「……巫女達はあの村に滞在しているようです。
この辺りは安全ですから…ここから先は貴女一人でも大丈夫ですね…」
僕は繋いだ手をゆっくりと離し、麻理子の方へと体を向ける。
『………』
見つめた彼女の瞳は、今にも涙が零れ落ちそうな程に潤んでいた。
「…なんて顔をしているのですか。
いけませんね…
これくらいの別れにいちいち泣いていては…」
『…ごめん…
私も…紫義みたいにもっと強くなんなきゃダメだよね…』
そう言って麻理子は涙を拭い、力強く顔を上げた。
全身に光を浴び、澄んだ瞳で真っ直ぐに僕を見る麻理子の凜とした姿は、胸を締め付けられる程に美しく、そして愛おしかった…
『紫義…
私、紫義の事忘れない。
紫義と一緒に居られた時間は、私の一生の宝物だったから…』
「……麻理子…?」
『ごめん…変な事言って。
それじゃあ…そろそろ行くね…』
「えぇ…」
ザアアァァ…
唐突に、風が辺りを通り抜けて行く。
まるで、別れの時が訪れた事を告げるかのように……
『──紫義…
"今まで"…本当にありがとう……』
「───……」
彼女が見せた、精一杯の笑顔。
けれど、何故かその笑顔の奥には強い哀しみが潜んでいるように見えた。
思わず開きかけた口を慌ててつぐみ、歩き始めた彼女をじっと見つめる。
総ては彼女をこの呪縛から解放する為…
ここで言葉を交わせば何もかもが無駄になってしまう。
きっと……麻理子を手放せなくなる。
そう自分自身に言い聞かせ、固く瞳を閉じた時だった。
『…ずっと……あなたを想ってる……』
通り過ぎる麻理子が、小さな小さな声で呟いた一言。
普通なら恐らく耳になど届かない程に弱々しいその声を、風が拾い、運んだのだ。
「───麻理子…っ!!」
気付いた時には、遠ざかりかけた麻理子の腕を掴んでいた。
振り向いた彼女の瞳から、大粒の涙がいくつも零れ落ちる。
先程の笑顔に隠された哀しみの理由──
それが今になってようやく解った。
「──忘却草を…飲まなかったのですね…?」
僕の問い掛けに、僅かな間を置いて麻理子はこくりと頷く。
『……兵士の人達が、教えてくれたの…
自分達には口を出す権利は無いけど、私には…せめて選ぶ権利くらいは与えたかった…って…。
総てを忘れて楽になるのか…
それとも痛みを抱えてでも、想いを護るのか……』
──彼女の答は、後者だった。
『だから私…
紫義の目を盗んで忘却草を…』
「…何故…飲んだフリをしたのですか…?」
『…少しでも…紫義の心から負担を失くしたかったの…
私の記憶が無ければ、送り出す紫義の痛みも、軽くなるんじゃないかって…そう思って……』
声を震わせ、俯きながらも必死に言葉を紡ぎ続ける麻理子…
彼女は一体どんな思いで今日一日…ここまでの道のりを歩いて来たのだろうか…
『だから…悲しくても我慢しようって……
紫義に、心配かけないように…って…
私──』
「麻理子…
もう、良いです……!」
胸を押し潰しそうな程の愛おしさを押さえ切れず、震える麻理子の体を強く抱き締めた。
──この想いを抱いたのはいつからだったのか…
何度摘み取ろうとしても、決して散る事なくこの胸に咲き誇る…
貴女への、たった一つの想い──
もう、この想いを手放す事などきっと出来はしないのだろう。
たとえこの先に…
どんな未来が待っているのだととしても…
「──麻理子に出逢えて良かった……
貴女に逢わなければ、僕はこんな幸福な気持ちを知る事なく生きてゆくだけでした……」
『…紫義…
…ごめんね…?
ずっと、傍に居られなくて…ごめんね……』
「いいえ…
それでも構いません…」
──心の奥で、二つの声が響いた。
"それは、口に出してはいけない言葉"
"今、伝えなければいけない言葉"
けれど…どちらが正しいかなど、もうどうだっていい──
「……今更…こんな事を言うべきではないと、解っています……
ですが…僕は少しでも永く…貴女と共に生きたい……
──少しでも…麻理子の姿を傍で見つめていたいんです……」
『……え…?』
僕の言葉に、麻理子は驚いたようにその大きな瞳で僕を見つめる。
「…それは…許されませんか…?」
『そんなの…!
良いに決まってるじゃない…』
そう言って微笑む彼女の頬には、涙の跡が残っていた。
涙の跡を辿るように、両手で麻理子の小さな顔を包み、こつりと額を合わせてみる。
「また…泣かせてしまいましたね…」
『ううん…良いの…
少しくらい痛くても…それでも紫義への気持ちを無くすよりずっと良い…』
「──麻理子…」
──貴女が居るだけで、こんなにも暖かな想いが胸を満たしてゆく…
罪と血にまみれる事でしか生きられなかった僕に、貴女はそんな感情が在る事を教えてくれた。
もしも誰かを愛する事に意味が必要だと云うのなら
僕にはそれだけで充分だ……
「貴女を愛しています…麻理子…
他の誰よりも、ずっと───」
そのまま、お互いの気持ちを確かめるように、そっと唇を重ね合わせる。
それは…一つの誓いであり、祈り。
一日でも多くの日々を、貴女と共に…歩んでゆけるように───…
End
~あとがき~
お疲れ様でした…
そしてごめんなさい…ι
紫義サマ視点は、想像以上に難しかったです…(泣)
本当はもっとイベントと言うか…話に厚みを持たせたかったのですが…なんだからモノローグの嵐になってしまいました(T^T)
次からは再び麻理子視点で書く事にします…ιι