細く細く、欠けた月が僅かに西へ傾きかけた頃。
ささやかに地上に注がれる月の光の中を、たった一人野営地へと急ぐ紫義の姿。
紫義が単独行動をする理由は唯一つ。
忠誠を誓った君主、玻慧からの命を遂行するため。
最近は野営地ごと場所を移し、隊総動員で任務にあたるの事が多く、今回のように紫義が単独で動くのは久しぶりの事だった。
しかも久しぶりな上に期間が数日間に及ぶ任務だった為、紫義の中ではやや気にかかる事が一つだけある。
(……何も問題が起きていなければ良いのですがね……)
そんな事を考えながら野営地へと辿り着いた紫義を迎えてくれたのは、見慣れたいつもの小柄な影。
『紫義!おかえり!!』
野営地の入口で立ち尽くして彼の帰りを待っていた少女は、紫義の姿を見つけるやいなや、全力で走って紫義の体に抱き付いた。
その顔には満面の笑みを浮かべて。
「麻理子……こんな時間にまだ起きていたのですか?」
『だって…紫義が帰ってくるの確認しないと心配で寝れないもの…』
紫義の言葉に、麻理子は少しだけ俯いてぽそり、と言った。
「……僕も、心配しましたよ…………」
『……え?』
「僕が貴女の傍を離れている間に、また玄武の者達が奪いに来ないとも限りませんから……」
自分が野営地に戻った時、もしもそこに彼女の姿が無かったら───
任務遂行時は、目の前の事に集中しなくてはいけないと頭では解ってはいたのだが、思考回路の片隅に生まれた小さな不安は、まるで雪山を転がる石のように周囲の細胞までもを巻き込み、脳内を支配してしまう。
離れている間、心配で仕方なかったのは紫義も同じだったのだ。
「……貴女が此処に居てくれて、安心しました…」
言いながら無意識のうちに抱き締めた彼女の肩は、長い時間夜風に当たっていた為だろう、随分と冷えている。
「………ずっと…外で待っていたのですか…?」
『うん…なんか天幕の中に居ても結局落ち着かなくて……』
いつ帰るかも解らない自分を待つ彼女は、恐らく毎夜夜更けまでこうして此処で待ち続けていてくれたのだろう。
それを思うと戦いの中で冷え切った胸の奥に、暖かな火を燈してゆくのが解った。
何故、こんな気持ちが生まれるのか……
麻理子がこの野営地に居着くようになってからは自分が生きてきたこれまでの年月の中で、およそ感じた事の無かった気持ちがどんどん生まれては胸の内を埋め尽くしていくのだ。
それがなんという名を持つのか、耳にした記憶はあれどまさか自分がそれを抱く事になるなど微塵も思っていなかった。
『紫義…?どうしたのぼんやりして…?』
麻理子の声にはっと我に帰ると、麻理子は心配そうに紫義の顔を覗き混んでいる。
『もしかしてどこか怪我でもしてるの? それとも具合いが悪い? それなら早く天幕に入って治療を───わ…』
紫義の手を引いて天幕へと向かおうとする麻理子だったが、その体は唐突に強く引き寄せた紫義の腕によって抱きすくめられ、身動きが取れなくなってしまう。
『し…紫義…?』
「大丈夫です…僕は平気ですから…少しだけ、このままで……」
麻理子の耳元にそう囁くと、紫義は麻理子を抱きしめる腕に、さらに力を込めた。
『こ…ここここのままで…って…』
元々こういった事に慣れていない麻理子だ。
きっと突然の事にどう対応したら良いのか解らず顔を真っ赤にしてうろたえているに違いない。
暗闇で、しかも背後から抱きしめている紫義には麻理子がどんな表情をしているのかは見えないが、それを想像するのは容易かった。
『あ…あの…で…でも紫義…何日も出掛けてたし、疲れてるんじゃ……』
「……えぇ、疲れてますよ」
『だ…だったら───』
麻理子が言葉を言い終わらぬうちに、紫義は自らの腕を僅かに緩めると素早く麻理子の体を自分の方へと向けさせる。
指先でするり、と麻理子の頬を撫でながら、紫義はくす、と口角を上げ、艶やかな笑みをみせた。
「疲れてるから…麻理子に癒して頂きたいのですが?」
『─────ッ!!!??』
暗がりの中であっても解る程に、麻理子の顔は見る見るうちに蒸気して真っ赤に染まっていく。
何かを反論しようとしているのか、それとも驚きのあまり体に行き届かなくなった酸素を求めているのか、麻理子は口をぱくぱくさせつつもそこから言葉が発せられる事はなかった。
「────ぷっ」
『………!?』
あまりにも慌てふためく麻理子が可笑しくて、紫義は堪え切れずにとうとう麻理子の肩に顔を埋めて笑い出してしまう。
『────ッ!!!紫義!!?まさか…からかったの!?』
「…すいません…そんなつもりは無かったのですが麻理子の反応が可笑しくて……」
『なにそれッ!!わ…私は真剣に紫義の事心配してたのに───んっ…』
麻理子は更に言葉を紡ごうとしたが、それは紫義の唇によっていともあっさりと封じられてしまった。
ただ触れるだけのそれは、すぐに麻理子から離れたが、悪戯っぽく笑うと先に言葉を発する。
「……ですから、本気ですよ。僕は貴女に癒して欲しいんです」
『な…な……!!』
「嫌ですか…?」
自分を見つめる深い、深いアメジスト色の瞳と鼓膜に甘く響くその声に、麻理子は暈すら感じた。
そんな紫義を前にして『イヤ』だなど言える筈もない。
『……なんか…今日の紫義って…いつもより意地悪な気がする……』
「そんな事はありません…久し振りに麻理子に会えて、嬉しいんですよ」
恥ずかしさに思わず俯きかける麻理子の顎に、紫義は軽く手をかけて制する。
───いつからだっただろうか。
自分に“帰る理由”が出来たのは。
玻慧様の為だけに生き、戦い、存在する……
それが“紫義”という存在の総てだった。
簡単に死ぬつもりも無かったが、しかし何がなんでも生き抜く、という強い気持ちなど、これまでに持った覚えは無い。
なのに────……
「───貴女の、せいですよ…?」
『え…何……?』
「貴女のせいで気軽に死ねなくなりました」
『ちょ…何言ってんの紫義ッ!!?簡単にそんな…死ぬとか言わないでよ…!!!』
紫義の言葉に、麻理子は思わず目を潤ませながら声を荒げてしまうが、紫義にはそんな麻理子の反応さえも嬉しくてたまらない。
何故ならそれは、自分には帰るべき場所が在るのだと教えてくれる言葉だから。
「僕はちゃんと、麻理子の元へ帰ります…だから────」
『────……!』
紫義は麻理子の耳元にぽそり、と何か一言呟くと、そのままもう一度、麻理子の唇へとキスを落とした────。
End
~あとがき~
この小説も、携帯サイト『久遠の夢』を運営中に訪問者様よりリクエストを頂いて書かせて頂いた小説です。『甘夢』をご希望だったので、とりあえず重くならないように、けど軽すぎないように自分なりにバランスを考えてみた... つもりなのですが、どうでしょう(^ω^;) 最後に紫義さまが麻理子に最後に何を言ったかは、皆様のご想像にお任せいたします(笑)
2007.09.10.